2016年9月28日水曜日

「言ってくれなきゃわからないよ」というアレ

しばらく前にAmazon Primeに登録していて見放題ということもあり、最近よくアニメを見ていた。ドラえもんや北斗の拳も見られるが、そうではなくてわりと最近の深夜アニメっぽいもの。

そういう中でいくつかの作品にそれぞれ異なったシチュエーションで出てきたように思うのが、「言ってくれなきゃわからないよ」という話。

それを言うのはただの高校生であったり、魔法や超常の力を振るう戦士であったりするが、共通するのは美少女であることだ。とは言え、深夜アニメの登場人物の9割は美少女なので、それは特別なことではない。

つまり、近年の物語に頻出する人間関係の問題が、お互いがお互いのためを思って、悩み、行動しているのに、お互いの意図が伝わらないためにお互いが傷つけ合い、すれ違ってしまうという現象ならしい、というように感じたというのが俺が今、言いたいことだ。

それは人類の歴史と同じくらいの年季が入った問題なのだろうと思う。が、とくに最近は顕著に問題になっているのだろうか。それでよくテーマになるということなのだろうか。

しかし、そう考えてみれば確かにそうかも知れない。

安易な発想ではあるが、やはり価値観の多様化というものが背景にあるのだろう。価値観が多様であり、共有できていないから、それとなく意図を察するというのが難しくなる。

こういうことを言えば、現代でなくたって人が価値観を何でも共有して平和だったなどということはない、という反論がありそうだなと思う。

それはそうだろう。しかし、そうではない。

むしろ、現代においてだって、多くの人間はほとんどの価値観をほとんどの他人と共有しているはずだ。そうでなきゃ社会など成り立たない。とは言え、例えば古き良き時代にはズレが10%あったとして、それが今は15%になっているとか、そういう微妙な変化はきっと起きていると思う、ということだ。

そうした変化の原因になるのはやはり情報だ。人生のあり様、生き方というものも随分と多様化したという気もするが、そこは個人の価値観にそこまでの影響を与えるとは思わない。

なぜなら、自由に生きる人や変人のような人というのは大昔から一定数存在していた。それこそ偉人伝に出てくるような者はほぼ残らずそうだろう。ただ、そんな人間がどこかでおかしなことをしているということは、元来、我々のような凡人には関係のないことだったはずだ。

それが、インターネットの登場以降、ホームページ、Blog、SNSといった直接的なネット経由の情報発信はもとより、ネットを基盤に企画・量産される書籍や映像のような間接的にネットを利用した情報発信まで、いろいろな意味で玉石混交の大量の情報に凡人が被ばくするようになった。

いくら大量の情報に曝されても、我々が受け取り、我が物とできる情報の量には限度がある。大量の本を読んでいろいろキャラクターの眼を通したモノの見方や価値観というものを理解しても、自分の価値観というものは通常、ひとつの一貫性のあるものとしてしか持てない。

だから、自分が体験から学習した価値観というものからひとつの類型を選択して自らの価値観の基礎とするのだと思うが、その選択肢があまりに増えてしまったのではないか、と思うのだ。

その結果、私と彼方の価値観に決定的な齟齬が生じる確率がひと昔より高まっており、それがために善意が伝わらずに悶々とするという事態が頻出し、その需要に応える形で「言ってくれなきゃわからないよ」というメッセージを発するような物語がそこかしこで語られるのではないか。


以上、オチはない。単に、深夜アニメ数本を見てサマった感想である。


ちなみに、人間は通常、一貫性のあるひとつの価値観に則って行動したくなる、というのは自分の持論です。オリジナリティがあるとは思っていないが、とにかく自分は経験的にそう思っている。特に、会社で部下をちょっと持っていて面談や指導などしていた頃にそういうことを感じた。
価値観というのは、「私は現実主義者よ」とかっこよく言い放つようなことではなく、しばしば自分でも気づいていないような、あるいは自分で思っている自分像とは違うようなもので、その人の行動、発言、感情というものを支えているものだ。

言ってみれば、その人の「世界の見え方」とも言える。本人はそれしか見えていないのだから、それを他人と比べることは簡単には出来ない。単純に言えば、「色」だって人によって見え方は違う。赤と青は物理的に違う色だろうし、特に障害がなければそれは皆、見分けているが、しかし「赤と青は違う色だね」という話と、「これが赤だね」という話が一致しているからと言って、その赤が同じに見えているとは限らない。というか、まず、違っているはずだが、その違いはあるとわかってもどう違うかは認識できない。色のような物理的な性質ならさして問題は起こらないが、これが道徳や評価といった社会的な性質のことなら軋轢が生じる。


そして、それこそ偉人伝に出てくるような天才は、きっとそこにこそ肝心な部分があるのだと思っている。つまり、様々なことを学習した結果、多様な価値観を自在に操ることが出来るのだと思う。完全に同時に2つの価値観を持つということはたぶん脳みその構造からして論理的に無理なのではないかと勝手に想像しているが、きっと天才的な人々は、多くの知識と高い思考力から、ごく短い時間に価値観を切り替えて行けるのだ。簡単な比喩をすればタイムシェアリング式の並行処理だ。

我々凡人が、人生の中のある長い時期をかけてゆっくりと価値観を育て、変容させていく(あるいはある時からまったく変えなくなる)のに対して、彼らはきっと会話の中で、いや自分がひとつの発言をする間にすら価値観を切り替える。加えて凡人の成長と違うのはその切り替えの速さのみでない。その切り替えが可逆的なのだ。そうなると言わば脳内で二人分以上の価値観を討論させることが出来る。三人寄れば文殊の知恵と云うが、それを自家発電で間に合わせてしまう。

漫画に出てくるステレオタイプな天才博士はいつも一人でブツブツと喋っているが、あれはつまりそういうことなのだろう。よく特徴を捉えているのだ。

つまるところ、「君子は豹変す」と大昔に誰ぞが喝破しておられるのも、そういうことなのだろう。


してみると逆に、我ら凡人が陥る不条理のひとつの原因も見えてくる。価値観がひとつしかなく、変化が遅く、不可逆的であること。それが我々の能力に不自由をもたらしている。

「自分の考え」を捨てられない。いちど敵と思ったもの、一度嫌いだと思ったものをどうしても好きになれない。時間をかけて苦労してそれを好きになると、今度は嫌いになれない。否定することが自分を裏切るように思えて、苦しくてそれが出来ない。「せっかく頑張ったのに」みたいな気持ち。そういったことが、よろしくない。過去の自分に執着して、自分と周囲の今と将来を犠牲にしている。・・・だからきっとお坊さんも執着を捨てよと言うのだろう(詳しいことは知らないが)。


きっとここまでの推論は正しいだろうと自分では思っている。


とは言え、ポリシーがないのがポリシーで、目標を持たないのが目標です、とか言っていた時期が自分にもあったが(しかも、社会人で、会社で)、それはそれで拗らせているというか・・・・やはり、難しいですね、社会で生きていくというこは。それでも社会の外で生きていくよりは簡単なのだろうけど。

最後に無理にまとめるなら、願わくば、俺ももっと若いころに、美少女に上目遣いで微笑みながら、怒りながらも赦しを湛えて「そういうこと、きちんと言ってくれなきゃわからないよ?」とか言われてみたかった。

まあ、野郎に目を吊り上げて呪いを込めて「んな事、言わなきゃわかんねえのかよ!?」と詰め寄られたことならあったかも知れないが、そういうのは今後も含めてノーサンキューだ。

だいたい同じことで少しズレてるだけなのに随分違う。不思議だ。なるほど。

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